沖縄交響楽団創立60周年記念演奏会特集

沖響60周年記念演奏会でのマーラーについて

指揮者/大勝秀也先生プロフィール

マーラー/交響曲第5番曲目解説

金井喜久子/交響詩曲「梯梧の花咲く琉球」解説

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練習風景

  沖響60周年記念演奏会でのマーラーについて


     マーラーの交響曲は編成が大きすぎて、第1番「巨人」以外、沖縄県内ではなかなか演奏される機会がありません。沖響 は、10年前の2006年(創立50周年)に、第2番「復活」を取り上げました。10年後の今年、創立60周年に当たり、やはり大規模な編成が必要な周年 記念にふさわしい曲ということで、今回は第5番を取り上げました。2番同様、今回が沖縄初演となります。

     オーケストラ練習は年明け1月から早々に開始し、指揮の大勝秀也先生には、3月、7月2回、9月、10月と、これまで以上に強力な指導をいた だきました。特に弦楽器は大変な難曲ということで、今回初めて、各パートごとに県内プロ奏者の指導を受けてきました。10 月には、新日フィルVn奏者篠原先生の指導による弦楽器全体練習も行われます。
     
     今回の沖縄交響楽団の編成は、総勢96名の予定です。管・打楽器の編成が10年前の2番よりかなり少ないので、オケ全体としては 少ないですが、弦楽器だけですと、2番のときより1人多いです。団員だけでは人数が足りないので、県内他団体や県外の方、プロ奏者の方々にエキストラ出演 をお願いしています。

      沖響「マーラー5番」編成内訳

        弦楽器  64名 (1stVn16、2ndVn18、Va11、Vc10、Cb9) 
        木管楽器 13名 (Fl 4、Ob 3、Cl 3、Fg 3)
        金管楽器 14名 (Tp 4、Hr 6、Tb 3、Tub 1)
        打楽器等 6名 (Tim1、他Per 4、Hp 1)

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交 響曲第五番 嬰ハ短調/グスタフ・マーラー (1860-1911)
5. Sinfonie cis-Moll / Gustav Mahler (1860-1911)
使用楽譜;1989年版

(演奏会プログラム解説:松本氏)

Mahler

「――手元にある、あらゆる技術を駆使してひとつの世界を創造すること」
いささか仰々しいまでの迫力を持つこの言葉は、マーラー自らが“交響曲”という音楽形態について述べたものです。幼い頃から身近にあった文学で育まれた マーラーの想像力は、クリムトやシーレの退廃的な絵画が注目され、フロイトの精神分析を軸に「芸術」が「深層心理の表出」と捉え直された世紀末ウィーンの 時代の風を受けて大きく開花することになります。第一次世界大戦前夜である世紀転換期、様々な芸術が連結・発展したこの時代は歴史上まれにみる文化の爛熟 期であり、音楽においてもシェーンベルクを筆頭とする作曲家が無調音楽を確立し、感情的表現に重きを置くロマン派を睨み付けるような前衛の潮流が生み出さ れていました。
 芸術家たちが足並みを揃えて前衛を追い求める中、交響曲五番は1902年に完成します。2番から4番までの一連の交響曲で用いられた声楽は除かれ、純交 響曲形式を志向して本作品は作曲されています。マーラーが魅せる音楽構成の上で楽器は「技術」となり、ひとつの「世界」を築くための不可欠要素として現れ ます。音と音の融合と調和。マーラーが目指した世界に響く音は、天上を思わせるような見事なハーモニー、真の意味での「音楽」に違いありません。


第一楽章 In gemessenem Schritt. Streng. Wie ein Kondukt.
―正確な速さで。厳粛に。葬列のように―

トランペットソロによるファンファーレで幕を開けます。アウフタクト(弱拍)の「タタタタン」のリズムで前進する様は、さながらベートーヴェンの『運命』 の動機を思わせつつ、得も言われぬ緊張感を与えます。本楽章は葬送行進曲として構想されており、ファンファーレの不吉な動機はやがて拡大、トゥッティ(全 員で奏すること)となり幾度も反復されます。 嵐のような勢いを持つ悲愴のメロディが過ぎ去った後、静寂の中でティンパニーが動機を刻み、弦楽によるトリ オとなります。トリオの盛り上がりの後、彼方に消えて行くようなファンファーレと大太鼓の重低音が場を包み、フルートが一節吹いた後、二楽章へと静かに移 行してゆきます。

第二楽章 Stürmisch bewegt. Mit grösster Vehemenz.
―嵐のような動きで。大きな激烈で―

ソナタ形式で作曲された楽章です。うねるような低音部が印象的な序奏のあと,ヴァイオリンが担う第一主題が姿を現します。この主題の後、第一楽章のトリオ で表現された憧れと郷愁に満ちたような旋律が回帰してきます。中間部では第一楽章の葬送のリズムでチェロが第二主題を歌い出します。重い響きが続いた後、 明るいコラール風の主題がトランペットに乗せて登場しますが、これは断ち切られるようにして再び第一主題へと収束してゆき、静謐な音で閉じます。

第三楽章 Kräftig, nicht zu schnell.
―力強く、速すぎず―

スケルツォとして構想された色彩豊かな楽章であり、オブリガート(助奏)の指示を受けたホルンとオーケストラの協奏的な性質を持っている事が特徴です。冒 頭、ホルンによる明るい動機が示されたあと、木管が軽快な舞曲風な旋律を奏でます。空間を包むかの如く豊かに伸ばされたホルンの信号に呼応し、のどかで純 朴な主題が現れます。後半、焦燥感を感じさせるほどに勢いづくメロディはやがてワルツ風の旋律へと変化し、やはりホルンの咆哮が呼び声となるかのように オーケストラが動き、勢いを保持したまま一気に閉じてゆきます。

第四楽章 Adagietto. Sehr langsam.
―アダージェット。非常に遅く―

ハープと弦楽器のみで演奏される本楽章は、他の楽章とは対照的に交響曲の“ルーエプンクト(静止点)“だと言えます。ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死 す』で用いられた音楽としても有名で、静謐で陶酔的な曲調は交響曲五番の白眉と言えます。ハープが奏でる弦の共鳴の上に、ヴァイオリンが神秘的な主題を乗 せて始まります。楽譜上では100小節足らずですが、ゆるやかなテンポと冒頭のハープの波を拡大したかのような弦楽のうねりで、見事な音楽表現を達成して います。中間部ではテンポが上がり、続く第五楽章を予兆する旋律が登場し盛り上がりを見せ、ノスタルジックな余韻を残すか細い和音で締めくくられます。

第五楽章 Rondo-Finale. Allegro giocoso.
―ロンド・フィナーレ。楽しげに―

第四楽章の最終音をホルンが反復したのち、ファゴット、オーボエ、ホルン、クラリネットなど管楽器群が主題の断片を奏でます。一貫してロンド的な明るい性 質を備えた楽章であり、大編成のオーケストラが前楽章までに予兆されてきた悲愴感を打ち砕くことで、ベートーヴェンを想起させる「暗→明」、「苦悩→歓 喜」の交響曲観と共に高らかに勝利が歌い上げられる壮大な構成になっています。ホルンによって提示される主題は明るく、様々な楽器に受け継がれながら彩ら れてゆくリズミックな和音は、エネルギーを放出するかのように頂点へと向けて一気に膨張してゆき、強烈な響きで大迫力の内に幕を閉じます。

追加解説(Web担当金城)

マーラーの交響曲はとにかく長い。5番全体で目安として1時間10分だが、私のCD(バーンスタイン、ウィーン・フィル)は1時間14分程度。1楽章14分、2楽章15分、3楽章19分、4楽章11分、5楽章15分。

4楽章の最後、強弱記号は、pppp ピアニシシシモ。ほぼ無音状態になる。そこから最後の5楽章へは、アタッカといって、指揮棒がおりることなく切れ目無く続く。息をするのも控えなければ・・・という雰囲気になる。

視 覚的な面では、弦楽器の配置の違い。ステージに向かって指揮者左にヴァイオリン(Vn)1st、右に2ndの配置をとる。チェロ(Vc)も 左、ヴィオラ(va)は右。コントラバス(Cb)は左という配置。

もう一つ視覚的に目立つのが、マーラーが楽譜上で指示しているオーボエとクラリネットのベルアップ箇所。音をより強く聞こえるように、楽器を指揮者に向け、上げて演奏する。この曲では20箇所以上ある。

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  金井喜久 子:交響詩曲「梯梧の花咲く琉球」について

(演奏会プログラム解説:高良氏)  

交響詩曲「梯梧の花咲く琉球」/金井喜久子(1906-1986)
使用楽譜;楽譜作成工房ひなあられ

kanaikikuko

宮古島出身の金井喜久子は,合唱曲,オペラ,管弦楽曲など幅広い作品を残した作曲家で,今年で生誕110年,没後30年を迎えます。

喜 久子の祖父,川平親雲上朝章は首里の伊江家から分家した在番で,また父の朝恵も宮古上布工場,泡盛工場などを起業した名家でした。しかしながら日露戦争や 世界大恐慌に巻き込まれて全財産を失い,さらには借金を抱えました。さらに祖父が他人の事業の保証人であったため,担保としていた家屋敷までも失い,川平 家は苦境に陥りました。父朝恵は心労から病に倒れ,世を去ります。その時の状況を母オミトは後に「一生忘れ得ない厳しさ,悲しさだった」と述懐していま す。そんな中,1906(明治39)年,三女の喜久子が生まれます。川平家では養育が困難だったことから,次女カナを那覇の辻町へ養女に出します。長女カ マルと母は,喜久子を子守しながら不眠不休の宮古上布織りをしました。幸いにも第一次世界大戦の好景気により質の良い上布が高額で売れ,川平家の経営状況 は回復しました。そんな幼少期の頃の記憶を,喜久子は次のように述べています。「那覇から宮古へ巡業に訪れた沖縄芝居の太鼓の音が特に大好きだった。私の リズム感は芝居小屋で目覚めさせられた」。喜久子は生まれながらに音楽が好きでした。特に和太鼓の音色が好きで,本日演奏するこの曲中にも和太鼓のリズム が印象的に用いられています。

  喜久子は宮古を離れ沖縄県立第一高等女学校へ進学します。女学校で沖縄民謡の「浜千鳥」をピアノで弾いていたところ「そんな下品な沖縄の歌などピアノで弾 いてはいけません。良家の子女や名門校の生徒がやるものではありません」と先生から注意を受けたことがありました。当時,沖縄民謡に対する世間の目は厳し いものでした。この言葉は喜久子の人生を強く支配するほどショックで「沖縄の音楽が外から理解されず,劣等視されるのは『オタマジャクシ』がないからだ。 いくら良い歌と思ってもこの調子では沖縄という垣根の花でしかない。芸術をある領域の中に押し込めるのは間違っているし,歴史的,政治上の問題でコンプ レックスを持ち続けているのも間違っている。」と述べています。その後,喜久子は沖縄を離れ,昭和5年3月に日本音楽学校で声楽を学び,23歳,卒業しま す。絵歌でアルバイトをしている中,東京商科大学(現一橋大)オーケストラ部でトロンボーンを吹いていた佐野儼四郎と出会いました。後に生涯の伴侶となり ます。儼四郎はその後に母方の親戚の金井家の養子になり苗字が金井に変わりました。夫儼四郎の強い勧めもあり,喜久子は沖縄の音楽を発展させることを目的 に作曲の道を進むべく東京音楽学校作曲科(後の東京芸大音楽部)の選科を昭和10年の27歳に進みます。3年間の在学中に二・二六事件,日中戦争と,世相 は暗くなる中で,作曲法の教授の門下生としてレッスンを受け続けます。そんな中,門下生の作品を発表する演奏会が開催されました。昭和15年12月に日比 谷公会堂で開催された発表会で中央交響楽団(現東京フィル)による演奏で交響曲第一番(3楽章まで)を発表しました。これが日本女性作曲家として最初の交 響曲作品でした。その後は沖縄民謡をオーケストラに乗せた作品に変え,大東亜戦争の開戦直前には「沖縄舞踏組曲」を発表し,大好評を受けました。が,戦火 の波はついに日本中を飲み込みました。喜久子はお手伝いとして面倒を見ていた藤子の出身地であった山梨で疎開をします。幸いに1945年8月,そこで終戦 を迎えました。

交 響詩曲「梯梧の花咲く琉球」は戦後直後の1946(昭和21)年11月に日比谷公会堂で開催された「美しき琉球民謡による歌と管弦楽と舞踏の会」で発表さ れました。戦時中,ピアノを弾くことが国賊とされる中,喜久子は沖縄の地が血みどろな戦の場となっていることに涙しながらこの作品を生んだのでした。

南のサンゴ礁の島特有の燃えるような夕焼け空。それに映えて深紅に咲く梯梧の花。赤一色に染まった校庭に落ちこぼれた梯梧の花は,宝石のように幼い私の心を引きつけた。頬にあて,唇に含んだ。その肌は柔らかく,冷たい感じのする花びらは,私を夢の世界に誘う。
喜久子はその後1955年に「琉球の民謡」(音楽之友社)で毎日出版文化賞を,また1971年には「じんじん」で日本レコード大賞童謡賞。また第一高等女学校出身であったことから「ひめゆり平和祈念資料館」の建設に尽力しました。
金井喜久子著,「ニライの歌」,比嘉辰博発行,琉球新報社(2006年)より引用

追加解説(Web担当金城)

沖 響は、金井喜久子と縁が深い。2002年4月、NHK沖縄放送局による第53回沖縄の歌と踊りのつどい・第二 夜・金井喜久子プロジェクト第3部で、沖縄奇想組曲と琉球舞踊組曲第2番を演奏したのが最初。沖縄初演。

以後、2006年11月の金井喜久子生誕百周年記念演奏会(宮古島)、2007年7月の金井喜久子生誕百周年記念演奏会(交響詩曲「宇留間の詩」を県内初演)(てだこホール)で演奏。

金 井喜久子のオーケストラ曲は、20世紀初頭ドイツ音楽の影響があるが、そこに沖縄メロディーや、太鼓や三線などの伝統楽器 がからみ、独特なサウンドになっている。今回の「梯梧の花咲く琉球」も、和太鼓が入っており、聴いたことのあるメロディーも聞こえてくる、わかりやすい曲である。これも沖縄初演。

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